JAPAN FEATURE 三重県・鳥羽市
Welcome to Ise-Shima ~ 海女が迎える御食国(みけつくに)~

Welcome to Ise-Shima ~ 海女が迎える御食国(みけつくに)~

2016年5月に予定されている第42回先進国首脳会議(伊勢志摩サミット)の開催決定を受け、にわかに盛り上がりを見せる三重県伊勢志摩エリア。伊勢市、鳥羽市、志摩市をはじめとした3市3町で構成され、国立公園に指定される志摩半島の豊かな自然環境と、伊勢神宮のお膝元として古来から大切に守り継がれてきた伝統文化が息づく地域です。

はるか神話の時代から「御食国(みけつくに)」と呼ばれ、豊かな海の恵みを神宮や朝廷に捧げてきた特別な土地。そして、海と、信仰と共に生きてきたこの地と深く関わりがあるのが「海女文化」です。身ひとつで海に潜り、漁を行う女性たち。志摩半島には二千年以上も昔から海女が存在していたといわれ、現在にいたるまでその漁の伝統が脈々と受け継がれてきました。

現在、日本には約2,000人の海女が存在しているといわれますが、鳥羽市・志摩市には全国でも最多となる1,000人近い現役の海女が活動しています。ただ、高齢化や後継者不足、海の環境変化などの要因により、全国的に海女文化は危機的な状況にさらされているのが現実です。

いま、三重県や各市町村では、サミットの開催にあわせて県内各地の歴史・文化資産、特産品、観光資源などを世界に向けて発信し、世界の人びとをもてなす体制の整備に本腰を入れています。

そんな中、伊勢志摩地域が誇る大切な文化遺産であり、現在も生業として人びとの暮らしと共にある「海女」の存在をあらためて発信し、次代に受け継いでいくため、各所が連携した取り組みがはじまっています。

海女が迎える御食国。
今号のEdeaでは鳥羽市を取材。自然の恵み、信仰と共に生きてきた日本の原風景が残るこの地で、受け継がれる暮らしの姿を守りながら、海女文化の伝統と価値を世界に、そして次代に伝えるため活動を続ける海女たちに出逢いました。

“ライフ・イズ・エンタテインメント”

神様に愛された豊饒の海と、伊勢志摩の海女文化

神様に愛された豊饒の海と、伊勢志摩の海女文化

「あま」とは、素潜りでサザエやアワビなどの貝や海藻を採る漁師のことで、女性を「海女」、男性を「海士」と表記します。この潜水漁業は古来より変わらぬ原始的な方法で続けられてきました。男性に比べて女性は皮下脂肪が厚く、寒さの厳しい潜水作業に適しているため、現在全国で活動しているのはほとんどが海女です。2013年にはNHK朝の連続テレビ小説で、岩手県三陸地方の女子高生海女の活躍を題材としたドラマ「あまちゃん」が大ヒットし、海女文化にあらためて注目が集まることになりました。

そんな海女のふるさとともいわれ、日本一の現役海女人数を誇る伊勢志摩エリア。
約二千年前、伊勢へ天照大神(あまてらすおおみかみ)を祀った倭姫命(やまとひめのみこと)が、神様の食べ物を探して鳥羽市の国崎(くざき)を訪れた際に、地元の海女が差し出したアワビの美味しさに感動し、毎年神様に献上するように命じたといわれています。それ以来、伊勢神宮の神饌(しんせん、神に捧げる食事)には、アワビをはじめ鳥羽・志摩で採れる海の恵みが用いられ、その伝統は現在も変わらずに続けられています。神様にも愛された豊饒の海とともに、この地の海女文化は大切に守り継がれてきました。

海女小屋体験でおもてなし

伊勢志摩エリアの中でも、最も現役海女人数が多いのが鳥羽市相差(おうさつ)町です。町としても「海女と漁師のまち」としてアピールし、海女文化資料館や海女体験施設を整備して観光客を迎えています。

「海女小屋体験」

特に観光客に人気が高いのが「海女小屋体験」。海女小屋とは、海女たちが漁を行う時に準備や休憩に使い、かまどで火を焚いて潜水作業で冷えた身体を暖めたり、みんなで食事を楽しむ団らんの場所です。海女小屋体験では、現役の海女たちが迎える小屋で、丁寧に炭火で焼かれる新鮮な海の幸を食べながら、漁のことや暮らしの話を聞くことができます。

そんな海女小屋のひとつ、相差にある「はちまんかまど」は、海女小屋体験施設の先駆けでもあり、全国から、そして海外から増え続ける観光客を迎えて海女文化の発信に力を入れています。もともとは本来の海女小屋として地元の海女に利用されていましたが、2004年に鳥羽市からの依頼で「本当の海女さんたちの暮らしや文化に触れたい」と希望するアメリカ人の団体客を迎えたことがきっかけで評判を呼び、現在のような観光客向けの海女小屋体験施設が始まりました。従業員はみなが現役の海女仲間。天候が悪く漁に出られない日も働くことができ、海女のみなさんの新しい職場にもなっています。

伊勢エビやアワビ、サザエなど炭焼きで丁寧に焼かれる豪華な海の幸

鯛のお造り

伊勢エビやアワビ、サザエなど丁寧に炭火で焼かれる豪華な海の幸(左)と鯛のお造り(右)
※提供内容はコースによる

海女のみなさんによる踊りもあり、気さくにいろいろなお話が聞ける

海女のみなさんによる踊りもあり、気さくにいろいろなお話が聞ける

いまでは訪れる外国人観光客の国籍も様々で、はちまんかまどではそうしたお客様に対応するための準備を鳥羽市の中でも先駆けとなって進めています。中国人向けに銀聯カードにも対応、ムスリムの方向けに礼拝室も整備しました。

はちまんかまど

取材に訪れた日も海外からの観光客で大人気。ヨーロッパからのツアー客の男性は、通訳を通してしきりに海女さんとコミュニケーションを取り、海女文化に興味津々。別れ際も名残惜しそうに、何度も写真を撮っていました。香港から訪れた夫婦は、海女さんがその場で焼いてくれた新鮮な海の幸に満面の笑み。「香港じゃこんな美味しいのは食べられないから大満足だよ」と話します。美味しい食事はもちろん、海女文化と人のぬくもりに触れて感動し、決してアクセスは良くない場所にも関わらず「また会いに来たよ」と海外から再び訪れる人もいるといいます。

海女小屋 はちまんかまど

海女小屋 はちまんかまど

海女という生業、海女という人生

海女という生業、海女という人生

はちまんかまどで海女頭を務める野村禮子(れいこ)さんは現在84歳。祖母も母も海女という代々海女家系に育ち、14歳の頃に海女の道に入りました。以来、70年近くにも及ぶ生業としての海女人生を歩んできました。はちまんかまどでは、亡くなった旦那さんの仕事である建築業の関係で運営にも携わり、現在は海女小屋で観光海女として来訪者をもてなしつつ、ご自身の経験を伝えています。 海女文化を取り巻く時代の変遷とともに生きてきた禮子さんに、海女という生業、海女としての人生についてお話を伺いました。

海女になるのが“しきたり”だった

禮子さんが海女の道に入った昭和の初め頃は、海女文化がとても盛んだった時代。日本全国では1万人を超える海女が存在し、伊勢志摩エリアには6,000人を超える海女がいたといわれます。まだ現在のようにウェットスーツもない頃ですが、海女たちは昔ながらの白い装束を身に付け原始的な道具を持って、身ひとつで海に潜っていました。当時は海の環境も良く資源も豊富で、海女漁が最盛期を迎えた時代だったといいます。

「当時、相差に生まれた女性は、周りがみんなやっているから海女になるのはごく自然な流れ。“しきたり”みたいなもんやった。職業として海女になる、という境目は、自分で獲ったものを初めて市場に売った時かなぁ。大っきいアワビが獲れて、市場で売れた時の嬉しさは忘れられん」

この時代は、海女漁の中でも最もお金になり重要な水産資源であるアワビが豊富に獲れ、一日で10万円ほど稼いでいた海女もいたといいます。しかし、海女という仕事は禮子さんにとって決して楽しいものではなく、お金になるから仕事としてやっていた、みんなそうだったといいます。

「ウェットスーツもなかった頃、寒い季節に漁に出るのは本当に辛かった。嫌々海に飛び込んどった。雪が降る日も漁に出て、サザエ30個獲ったら上がれると、必死になって潜っていたのを覚えとる。嘘ついてはやく上がった友だちもおったなぁ(笑)」

元祖キャリアウーマン

禮子さんをはじめ当時の海女たちは、17~18歳で対馬や伊豆などに「出稼ぎ海女」として向かったといいます。

禮子さんをはじめ当時の海女たちは、17~18歳で対馬や伊豆などに「出稼ぎ海女」として向かったといいます。3月~8月の海女漁期間中、見ず知らずの海女仲間たちと船に乗り、対馬に滞在しながら海女漁に励みました。当時、博多からの船には100人くらいの海女がいたのでは、と話します。この期間に稼いだお金は、故郷に戻ってからの結婚資金として貯めたそうです。また、海女の仕事はそれだけではありません。漁に出ない秋には稲刈りに出て、冬は山に木を切りに行っていたといいます。禮子さんは21歳の時にお嫁に行き、23歳で出産。その後も子育てをしながら海に潜ってきました。

“ととう(夫)ひとり養えんで一人前の海女とは言えん”

この地方の海女の間で伝わる言葉です。海女のことを、“元祖キャリアウーマン”と呼ぶことがあります。古くから男性に代わって海に潜り、家計を支えていました。結婚して夫の仕事があっても、この地の女性は海女として働きました。夫より稼ぎが多いこともごく一般的だったといいます。それは子どもが産まれても同じで、そんな母の姿を見て、また子も海女をめざしたのです。

信仰と共に生きる、命がけの仕事

信仰と共に生きる、命がけの仕事

海女装束の額や漁に使う磯ノミなどには「ドーマン・セーマン」と呼ばれる模様が付けられています。これらは海の災難から身を守るための魔除けのシンボルです。身ひとつで海に潜り、呼吸を止めながら漁を行う海女は、まさに死と隣り合わせ、命がけの仕事です。

「私ら海女もみんな、自分の娘には海女になってほしいと思っとらなんだ。大変な仕事やからなぁ」

古くから海女の間では海の魔物の存在が伝わり、災いから身を守り無事に漁から戻ってこられるよう、様々な風習や信仰が根付いてきました。こうした信仰のかたちは、ウェットスーツなどが登場して漁が行いやすくなった現在でも変わらずに受け継がれています。

海女に会いにきてください

70年近く海女として生きてきた禮子さんに、最後に海女としての喜びを訊いてみました。

「いまは後継者不足とか、海の資源も減って海女は厳しい状況や。でも、ずっと昔から続いてきた大切な仕事。だから、最近は日本中から、世界中からいろんな人たちが来てくれて、ほんとうに嬉しい。例えばなぁ、前はイギリスのカメラマンが取材に来て、一緒に海に潜った。ディスカバリーチャンネルとやらに出してくれたんよ。オーストラリアからは、私が出てた新聞記事を切り抜いて、わざわざ持って会いにきてくれた子もおった。他にもインドや中国、東南アジアの人も増えとるなぁ。アメリカの男の人は女性に優しいんよ、鳥羽の男に似とるわ。あっはっは」

「来てくださるお客さんに、海女の仕事のこと、文化のことを私たちが伝えていく。元気なうちはそれを続けていくことが喜びやなぁ。だから、また会いに来てぇよ」

最後まで見送りに出てきてくれた禮子さん。相差の海をバックに、はにかんだ笑顔と、たくましくも優しい海女の佇まいが、とってもすてきでした。

海女に会いにきてください